月を仰いで

理由も分からずに押付けられたものを
大人しく受取って、
理由も分からずに生きて行くのが、
我々生きもののさだめだ。

隴西の李徴(りちょう)は博学才頴、天宝の末年、若くして名を虎ぼうの連ね、ついで江南尉に補せられたが、性、けん介、自ら恃むところ頗る厚く、賤吏に甘んずるを潔しとしなかった
という文章で始まる中島敦「山月記」の中での独白である。
李徴は公用で旅に出、発狂して闇の中に消える。臆病な自尊心と尊大な羞恥心が彼を虎にしたという。次第に虎の性向が人間の部分を凌駕してゆこうとする苦悶。
この短編は高校生の間では一時、随分とその解釈で話題になったものだ。

理由も分からずに押付けられたもの
ここ数年、そんなケースが随分増えているような気がする。
今日はそんな話題は辞めようと思う。みんなでになったら困るから。

フジ456j舎として、FaceBookを始めることにしました。
(詳細は、明日のこのブログで告知致します)

田んぼ
通勤路の左右の稲田(収穫後)

投稿者は私より年下なのでフレッシュな話になるだろうと期待しています。

草野球ならぬ”田野球”ができそうな広さの田んぼが2枚。
でもね、少し前なら雀の大群がいたものです。落穂食いに。
最近は雀を見かけることが少なくなりました。電線に連なる雀の姿もほとんどみかけません。ぷっくり膨らんだお腹が好ましかったのに、寂しいものです。

稲穂がないと、渡ってくる風が通勤時とても冷たく感じます。
1年も残り少なくなりました。