身をまもるということ(2)

窓

生活排水という言葉が言われ出してどれくらい経つだろう。
生活排水の前に、この国は水俣病など工場排水での公害に直撃された。大気汚染とともに高度成長の深刻な負の遺恨である。ここから、生活者としての国民の権利が改めて認識されたといってもいいかもしれない。
しかし、生活排水は日常生活に密着しているが故に、その影響は測りしれない。考えてみれば、人間が生活している中で排出されたものが環境に有害であるとは奇妙なこと。摂り入れているものが有害だから、排出されたものが有害だという単純な方程式なのだが、それではその摂り入れて有害なものとは何か。それはすべて人間の作りだしたものだ。そして、その利用度数が高いのは都市部に偏っていそうだ。
下水処理率という統計によると、東京、大阪はほぼ100%に近いのはそのことを裏付けているように思う。

下水処理と言っても、その処理内容には随分な違いがあるようだ。雨水と下水を、とにかく管にまとめて流してしまうというような乱暴なものも下水処理と呼んでいるところもあるようなのだ。この国はその点、生真面目に取り組んでいるのは誇っていいかもしれない。そのような研究心、執念を今、問題になっている海洋汚染の処理にも向けてほしい。
それとともに、プラスチック系のゴミの削減に取り組まなければならないだろう。プラゴミの回収日に積まれるゴミ袋の多さは尋常ではない。資源ということがもっと真剣に議論されなければならないだろう。
風

そして、最大のゴミ。核のゴミをどう処理するのか。処分場さへ決められないゴミをどうやって処理するのかはずっと先送りだ。フクシマの問題もいわば先送りしながら、忘れることを待っているように、再稼働に舵を切り続けている。

広島、長崎、敗戦や3.11などの得難い記憶がオスプレイの轟音と爆風で吹き飛ばされようとしている。しがみつく良心がどれだけ残されてゆくのか、本当に危うい時を迎えているのかもしれない。

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