1995.1.17

つる

早朝5時46分52秒。
マグニチュード7.3、明石海峡をを震源として阪神・淡路大震災が発生した。
最大震度が7で、それまでは比較的に地震が少ないと言われた阪神での大災害だった。

この時、私は上海に出張で、この地震は体験していない。

山
金剛山はその時どうだった?

現地のテレビで、一報は知ったように思うが、扱いも小さく余り気にならなかったように思う。
その後、少しづつ情報が増えるとともに、被害の大きさも伝わってくる。が、連絡(電話)は繋がらない。頻繁に会社や自宅にトライするが、効果なしが苛立ちを増幅した記憶がある。
次の日にテレビで惨状の一部を見たように思う。

その時、我が家は建て替えで、仮屋住まいであった。
隣駅の古い家で建付けはしっかりしているから、住まいの被害はなかったようだ。
後は伝聞情報だ。
建築業者:建て替え中の工事は、まだ基礎工事+アルファの段階なので、確認に走り、異常なしを確認して胸を撫で下ろす。そして、そこをうろつく猫(ファイト君ではない)を確認する。

<子供たち>
長女貯金通帳や貴重品を抱えて、台所兼食堂に避難。
長男熟睡中で地震すら、感知せず。

地域的なこともあるが、特に大きな被害はなく、私も間もなく帰国。
空港内は目立つ混乱はなかったが、何かザワツく気配を感じたのを覚えている。
この地震から始まるように、この年は多難な一年であった。阪神高速の橋梁が崩れた映像が長くこの災害を象徴していた。
戦後のこの国が脱皮の時期を迎えていたのだ。