禊(みそぎ)の取り方

高野

罪と穢れ(けがれ)を落とし自らを清らかにすることを目的とした、
神道における水浴行為を禊という。
この国では国政選挙などでよく耳にする言葉だ。
予定される参議院選挙と衆議院選挙の同時選挙さへ聞こえてくる今年、また、何人かの現職(そして大臣)が禊を訴えることだろう。
自らが、自らの罪と穢れを認識しているのだろうか。私には、そのことが疑問でならない。オフレコの積りがうっかり、公になったばかりにと、悔やんでいるのではないか。
形だけの叱責で自浄能力のない組織に守られた議員たちをまた、選んでしまうのだろうか。

個々の”穢れ議員”の問題と同様、というよりもっと深刻に私たちはアベノミックスの7年を厳しく評価しなければならないと思う。

車窓
高野山に向かう、人家まばらな村落

財政も含めて、この国の構造にメスを入れることもなく、目の前の効果だけを追い求めた結果、社会の基礎構造をボロボロにしてしまった。戦後レジームの正も負の部分も崩壊寸前のところまで、理念もなく追いつめてしまったのではないか。
戦後レジュームの見直しということであれば、まずは日米関係を再点検すべきではないのか。そこに祖父・岸信介の”手垢まみれの遺産”があったとしても。

天皇の新年の参賀のニュースを見ながら、
地滑り的な、国家的な崩落感を覚えてしまう。
自浄能力のないのは、そもそもこの国の国民なのだろう。